ここで、ルイス・フロイス氏からみた実際の織田信長像の描写に入る前に、今一度美濃国、現在の岐阜を治めるまでの信長公の年表をみてみましょう。
1534年〔天文3年〕※信長公1歳
尾張国にて織田信秀の次男として生まれる。
信長は幼名を三郎と名乗っていたが、決して三男に生まれたわけではなく、次男として生まれた。当時、嫡男:一郎、次男:二郎、三男:三郎など、序列に応じて漢数字やそれに準じた名前を付けることが多かったが、織田家は元来、世継ぎが三郎を名乗る風習があったとされる。現に、信長公死後の世継ぎ問題として、清洲会議で羽柴秀吉〔豊臣秀吉〕が担いだのは信長公直径の孫に当たるの織田秀信も有名な三法師の名の他に元服直後は三郎秀信と名乗っていた。ちなみに信長公の父で有る織田信秀も通称で三郎を名乗っている。
1535年〔天文4年〕※信長公2歳
那古野城〔後の名古屋城〕を与えられる。
1546年〔天文15年〕※信長公13歳
元服し、織田信長と名乗る。
1549年〔天文18年〕※信長公16歳
美野国を支配していた斎藤道三の娘、濃姫と結婚。
1551年〔天文20年〕※信長公18歳
父、織田信秀が死亡。家督を相続。
1554年〔天文23年〕※信長公21歳
村木砦の戦いで、今川方に鉄砲で勝利。
信長と鉄砲と聞くと長篠の戦いを思い浮かべる方も多いと思うが、信長公はこの時には既に鉄砲を使いこなしていた。
1556年〔弘治2年〕※信長公23歳
義父の斎藤道三が嫡男の斎藤義龍に攻められ自害。
斎藤道三と嫡男の斎藤義龍は血縁の親子ではなく、斎藤龍興はかつて斎藤道三に滅ぼされた美濃の名門土岐氏一族の出身だと言われている。
1559年〔永禄2年〕※信長公26歳
上洛し、足利義輝に拝謁。一方で岩倉城を包囲して城主の織田信賢を攻めて追放し、尾張国を統一。
当時、織田信賢は信長公の弟の織田信行、斎藤義龍らと結んで、敵対関係にあった信長公に対抗していた。
1560年〔永禄3年〕※信長公27歳
桶狭間の戦い〔別名:桶狭間村・田楽狭間の戦い〕で10倍もの勢力を持った駿河国及び遠江国〔現在の静岡県西部〕の今川義元を討ち取る。
1563年〔永禄6年〕※信長公30歳
美濃国攻略の拠点として小牧山城を築き移転する。
1564年〔永禄7年〕※信長公31歳
十三代室町幕府将軍・足利義輝から御内書〔将軍家から出される公文書のこと〕をもらう。
1565年〔永禄8年〕※信長公32歳
滝川一益に命じ、伊勢国北部の攻略に取り掛かる。
1566年〔永禄9年〕※信長公33歳
美濃国攻略の拠点として墨俣城を築く。
1567年〔永禄10年〕※信長公34歳
近江国の浅井長政と同盟。美濃国の斎藤龍興を滅ぼし、美野国を攻略。
当時岐阜城は稲葉山城、岐阜は井ノ口、井口、と呼ばれていた地域を岐阜と名付けたと言われている。岐阜信長命名説は諸説あるが、参謀を勤めていた臨済宗妙心寺派の僧、沢彦宗恩〔たくげんそうおん〕の助言で岐山・岐阜・岐陽の中から故事にちなんで岐阜を選んだと言われている。ただし、岐阜という地名は戦国時代以前から存在していたという説もあり、信長公が名付け親ではない可能性も存在する。
さて、如何でしたでしょうか。
信長公がお生れになり、岐阜を後の”天下布武”事業の拠点にするまでの流れをまとめてみました。
私自身、よく戦国の武将や幕末の志士の年表をみて自分と照らし合わせるたびに自分の小ささに凹んでいます〔汗〕。
信長公は今の私の年齢の頃には既に将軍へ拝謁し終えており、公文書をいただいていたわけです。
昔の武人の勇ましいこと…。
もちろん、単純比較はできませんが、歴史は未来を紐解く鍵でもありますから、戦国武将から学ぶべき点は数多くありますね!
現代人の我々も負けてられないです。